3/11/2025

お大師さまとお接待 その2

お接待 始まりは江戸後期

毘沙門堂に残る手掛かりは



 志手の毘沙門堂で弘法大師の命日にちなんだ「お接待」という行事が行われていた。このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その1」(2025年1月27日公開)で紹介しました。

 上の写真は志手の毘沙門堂です。弘法大師の命日にあたる旧暦の3月21日などに弘法大師像をまつり、お参りしてくれた人々に食べ物をふるまう。志手では長く毘沙門堂で「お接待」が行われていたそうです。

 「お接待」に限らず、今はなくなったこと、昔の話が地域には数多くあります。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が実際に見たことも経験したこともないことが多くて、話はどうしても伝聞調になってしまいます。

 「お接待」の風習は志手だけでなく、大分県内各地にみられ、今も続いている地域も少なくないようです。

 大分県内の「お接待」について広く調べてまとめた資料を大分県立図書館で資料を見つけました。タイトルは「大分県における『お接待』」。10年ほど前の大学生の卒業論文でした。

 表紙には「平成26年度卒業研究」「情報社会文化課程 社会文化コース」「岩尾成美」「指導教員 鳥井裕美子」と書いてあります。 

「情報社会文化課程 社会文化コース」というのは大分大学のウェブサイトにありました。

 この卒業研究の筆者は大分大学の学生だったようです。

 この論文の中に大分での「お接待」の始まり、源流について書いた部分があります。

 結論から言うと、筆者の岩尾さんは「江戸時代後期には(お接待は)成立していたと推測できる」と書いています。

 岩尾さんによると、大分県内でのお接待の最も古い記録は、国東市の国見町大熊毛区本谷地区の記録帳にあった天保6年1835年)3月で、1588人の参詣者があったと記されているそうです。

 では志手の毘沙門堂でも江戸時代の末頃には「お接待」がおこなわれていたのでしょうか。

 直接の証拠となるものは見つけられませんでしたが、江戸時代に造られたと思われる石碑が毘沙門堂の境内にあります。これが手掛かりを与えてくれるかもしれません。
 
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 冒頭の毘沙門堂の写真では分かりにくいですが、毘沙門堂の境内の右奥に入っていくと石碑が二つあります(上の写真)。
 

 刻まれているのは「四国」でなく「西国」


 どちらの石にも文字が刻まれています。上の写真手前の石碑から読んでみることにします。

 正面に「奉順禮西國三十三所供養塔」と彫ってあるようです。

 「順禮」とは「巡礼」のことでしょうか。横には年号が彫られているようです。随分と薄くなっていますが「安永四年 乙未 九月」と読めます。

 九月の後に一文字あります。「穀」とも読めそうですが、分かりません。

 安永四年とは西暦1775年だそうです。ウィキペディアを見ると、安永年間は「明和」の後で「天明」の前、西暦1772年から1781年までで江戸幕府は第10代将軍の徳川家治とあります。

 「供養塔」と書いてありますので、石碑と呼ぶよりも石塔と言った方が的確かもしれません。
 

 インターネットで「西国三十三所」「供養塔」とキーワードを入れて検索すると、大阪市のホームページが出てきました。

 大阪市の四天王寺にある「西国巡礼三十三度行者満願供養塔」が、大阪市の有形民俗文化財に指定されているようです。

 解説を読むと、「西国巡礼三十三度行者」という、いわば専従者、プロがおり、その行者が「1年に3回」ずつ本物の三十三所観音霊場を巡礼し、これを「11年」繰り返すそうです。

 合計33回の巡礼で満願結縁すると、それを記念して建立されたのが満願供養塔ということです。

 毘沙門堂にある「供養塔」が「満願供養塔」ならば、当時の志手村の人々が専門の行者に頼んで合計33回の巡礼をしてもらったということでしょうか。

 11年で満願成就ということになるようですから、少なくともその11年前、西暦で言えば1764年までには巡礼の依頼をしておかなければならないでしょう。

 この供養塔の横にある石碑にそのあたりの何かヒントがあるかもしれません。

     時代は遡り 8代将軍吉宗治世の時に



 まずは正面に刻まれた文字を見てみます。4年ほど前に撮った写真が分かりやすかったので、それを使います。

 正面の真ん中に「西國三拾三所當来救世観世音菩薩」とあります。右側には「寛保三 癸亥 年 當村同行」と書かれ、左には「七月 吉祥日 十八人」とあります。よく見ると、台座に18人の名前が刻んであります。

 こちらは観音さまの仏像、石仏ということでしょうか。

 二つの石造物、石塔と石仏の関係は。それぞれどんな目的で建立されたのか。種々の疑問が浮かびますが、仏教史に疎いこのブログ「大分『志手』散歩」の筆者にはどう解釈すればいいか見当もつきません。

 ただ確実に分かるのは刻まれた年号です。「寛保三年」。西暦1743年だそうです。江戸幕府の8代将軍徳川吉宗の時代のようです。

 ウィキペディアの「徳川吉宗」を見ると吉宗の将軍職在職は西暦1716年から1745年となっています。

 毘沙門堂での「お接待」の源流を辿ろうとしてみたら江戸後期どころか江戸中期まで遡ることになってしまいました。

豊後・大分にもあった西國三十三所霊場


 ところで西國三十三所霊場とはどこなのでしょうか。再び大阪市のホームページの解説を引用してみます。

 「西国三十三箇所観音霊場は、全国にあるさまざまな巡礼霊場のうちで、最も古くまで遡るものと考えられている。浄土教信仰の盛り上がりと山岳信仰が結びついて、平安時代後期には原型が成立していたといわれる」

 西国三十三所巡礼についてネット検索すると、もっと詳しい情報が得られますが、一言で言えば大阪や京都など2府5県に所在する観音霊場三十三所を巡礼することとなります。

 江戸時代に一大ブームとなって全国各地に「写し霊場」が設けられ、豊後と呼ばれた当時の大分県にも三十三所霊場ができたそうです

 毘沙門堂にある石塔などと豊後の西国三十三所観音霊場とは関係があるのでしょうか。

 西国三十三所の巡礼者にも「お接待」があったようです。すると、志手の毘沙門堂での「お接待」の源流は江戸中期まで遡れるということでしょうか。

 「お接待」はもともと西国三十三所巡りで素地があって、弘法大師信仰とともに四国からその風習が伝わって定着したとも考えられそうです。


 少し調べると次々に疑問が浮かび上がってきます。手持ちの材料ではすぐに答えは出せません。

 とりあえず今回はここまでとして、もう少し勉強を続けて行こうと思います。

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